私の東日本大震災体験記

2011年3月11日(金曜日)午後2時46分ごろに
起こった東日本大震災について体験したことを書いています。
もう震災から4年もたってるし会社も辞めてるし文句書いたっていいだろう
って気分なのでお酒を飲みながらバレない程度にぼかして書いてます

始めに、私の周りでは地震の影響で怪我をされた方や亡くなった方はいませんでした。
そういった意味ではとても幸運でした。被災した場所が海岸から離れた場所であったことも影響していると思います。

私は当時仙台市太白区にある会社に勤務していました。
たしか震災当日はある製品の製造をしていた記憶があります。
私の上司は丁度客先からの仕事に追われており、午後3時までに資料を
提出しなければならないとかなりテンパっていました。
そんな上司を横目に見ながら大変だな~って思っていました。

始まりは少しの横揺れからでした
あれ・・・地震だ・・・
と思った直後、猛烈な揺れに襲われました。
うぉおおおおおおおおおってなにがなんだかわからず
何も考えずに机の下にもぐりこみました。
揺れている間は何も考えられません。ただ終わるのを祈るのみでした
揺れの最中、同僚のおっちゃんがなにを思ったのか立ち上がって
勝手口のドアを開けようとしていました。
今から考えるとおっちゃんは必死に避難経路を確保しようとしていたとわかるのですが、
当時はこの馬鹿なにやってんだ隠れろ死ぬぞって本気で思ってました。
(さすがに声には出しません)そこまで思うほどひどい揺れでした。

1280px-SH-60B_helicopter_flies_over_Sendai

wikiより 仙台市宮城野区沿岸上空から北向きに仙台港周辺を空撮

大きな揺れがひとまず治まったころ、机の下から抜けだしました。
電気は止まっているし机の上は散らかっているし(これは元々か)仕事道具は散らかっているし
ひどい状態でした。幸い工場内でけが人はいないみたいでみんなどうしたものかと
唖然としていました。時々余震も続いていました。
その内上司が自分の家族のことが心配だといい、一足先に早退しました。
私のような独身は家に帰っても誰もいないしどうしたものかと思いましたが、
さすがに会社にいても仕事ができない状態だったので帰ることにしました。
服を着替えて早退することを報告しようかと思いましたが、上司はもう帰ってしまいましたし、
しょうがないので社長に報告をしょうと思い探してみるといない・・
あれどこいったんだろと事務の人に聞いてみるとなんと社長も家族が心配で一足先に
帰宅したとのことでした。

この社長は当時勤務していた会社の創業者で朝礼でもよく次のようにはなしていました

社長「私はこの会社を一から作り上げてきました。例え社員全員が会社を辞めて一人になったとしてもこの会社を続けてみせます。」

社員の前でそんなこというのもすごいなぁって聞いていたんですが、
実際に非常時になった時、社長が第一にやったことは社員への指示ではなく、
家族の心配のために帰宅することでした。
もちろん家族は大事ですし、私にも家庭があれば真っ先にかえったことは間違いないとおもうんですが
こういう時に人の本性って現れるものなんだなぁと感心したものでした。
普段から会社は大事、仕事は重要だと言っている人ならなおさら。

そんなこんなで上長のみなさまが先にご帰宅し、下っ端の私たち(工場内の20人位)は簡単に会社内の掃除をしてから自宅に帰りました。
ちなみに後でこの早退の扱いを確認してみるとしっかり全員有給扱いになってました。やったね妙ちゃん!
会社から帰る途中、交通整理をしていた警察官が必死な声で

警官「津波がくるから今すぐ高い場所へ逃げて下さい!!!!!」

って叫んでたのがすごく記憶に残っています。
津波?海岸まで数キロはあるこんな内陸で? 当時の私はほんとに意味がわからず、ただ家に帰ることだけ考えていました。これ本当に危険でしたよ。後に調べてみると私の住んでいる場所のほんの1キロ手前まで津波は到達していました。特に自宅から動かなかった私は下手したら津波に飲まれていました。

自宅のアパートはすごい散らかってました(これも元々ですが)特に部屋に入った時はなにか違和感があり、
なんだろうなって考えたらエアコンが床に落ちていたのが衝撃的でした。道理ですっきりしてるなと

私の自宅にはテレビがなく、普段はインターネッツで暇つぶしをしていました。地震後はもちろん電気もとまり、日が暮れるとなにもやることがないのですぐに寝ました。太陽が沈むまでが活動時間でその後はすぐ寝るという生活スタイルは電気が復旧する
数日の間続きました。寝てる間にも余震は起きます。この震災で被害に遭われた方には不謹慎なことなんですが、私はこの生活がすごく・・・新鮮だったことを覚えています。
その理由は当時勤めていた会社の勤務形態にありました。 当時の会社は小規模でしたが、上司を含めみんな必死に働いておりました。

偉い人「会社員たるもの夜の11時まで働くものだ」

こんな風土な会社であったわけで当然社員全員が毎日夜の11時、12時まで勤務し、自宅へは本当に寝るために帰ると言った生活でした。
残業手当?なにそれおいしいの?って感じです。
そんな生活をかれこれ3年近く続けていたこともあり、まだ日が昇っているのに家に帰えられるすごい!!となるわけです。
震災で自分の考え方が変わったなんて話よく聞きますが、私の中で私が一番変わったと思ったのは仕事に対しての考えですね

仕事一筋で働くっていうのは依然それほど抵抗はなかったのですが、いざ非常時になると頼りになるのは自分のみです。会社は助けてくれません。一応”有給をとってもいいよ(取れとは言わない)”とは言ってくれます。頼もしいですね(笑)
仕事もやるけど自分のこれからどう生きていくのかを考えるきっかけなりました。

閑話休題
その後は食糧を探すためにチャリンコを漕ぐ毎日でした。仙台駅周辺や国分町などに行きました。
また、近くにコンビニやスーパーに並んで自分が食べられる分を必死に買い込み
ました。実家にはNHKの伝言ダイヤルで連絡を行い、まぁなんとか生きているとは伝えました。
こういう時独り身だと身軽ですね。背負うものがなにもない気楽さがありました。
さみしくない・・・といえば嘘になりますが、いないものはしょうがない。
電気も復旧した震災から数日後、ようやくおちついてyoutubeなどで地震関連の動画を見た時は絶句しましたね
ラジオで津波があったとは聞いていましたが、実際にヘリコプターからの映像を見ると
自転車で20分も漕いだらいける場所が、私がよく見た場所が津波で押し流されているんです。
ここまでひどいのかと。
それまでわざと海岸のほうにはいかないようにしていました。余震も頻繁にありましたから怖かったんですね。遺体もまだたくさん放置されているとの噂もありましたし

脈絡無く書いてきましたが、私がこの大震災で学んだことは以下です

  • 非常食は常備しておこう

自炊せずコンビニ、スーパに頼っていた私には食料の確保が一番大変でした。
余裕をみて一週間程度は持つ水、食料は常備しておくべきだ本当に思いました。

  • デマには惑わされないようにしよう

デマというか誤報は必ず発生します(特に地震発生直後の混乱している時)。例えば震災当時のラジオでは私の住んでいるアパート周辺は津波で水につかったという報道がありました。これを聞いて私の上司はあ~Atehorse君もうダメだ・・・ と思ったらしいです。実際はそんなことありませんでした。

  • 自分の身は自分で守る

いざとなった時、会社は貴方を助けてくれません。自分や家族を守るために日頃から
災害時にどのように行動するかを決めておくのがいいと思います。私の場合、この大震災は自分の将来のことを考える切っ掛けになりました。

 

最後になりましたが、この東日本大震災で亡くなられた全ての方に哀悼の意を表すと共に、
救助に当たられた関係者の方に感謝しつつ終わりにしたいと思います。

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